「なぜ人は人を殺してはならないのか」を考える準備(2)

 前回のエントリーで、この問題は以下のように問われるべきであると述べた。
http://d.hatena.ne.jp/bolzano/20060320/p1

「多くの社会では、人は人を殺してはならないことになっているが、なぜそのような禁止が生じたのか」

まずは、社会の在り方から説明を試みる。社会契約論的かもしれない。
 もし「誰もが人を殺してもよい」という主張が成立する社会では、日常生活は恐怖と不安に満ちあふれたものになるだろう。道を歩いていたら、理由もなく、後ろから包丁で刺し殺される社会。駅のホームに立っていたら、後ろから押される。病院に入院すれば、勝手に医療装置を止められる(これは笑い事で済まないようだが)。こんな社会に住みたいとは、誰も思わないだろう*1。社会の機能も、ゆえに、「誰もが任意の人を殺してもよい」というテーゼは成立しない
 次に、「特定の人は人を殺してもよい」という状態を想像してみよう。たとえば、ローマ時代の皇帝のように(?)、「私のみが人を殺してもよい」という仮定である。これは、「誰もが任意の人を殺してもよい」という主張をすでに否定したのであるから、ここで言われる「私」が特権的な立場にいなければならない。つまり、ほかの人たちとは「私」は違うのである。
 この考え方は、「私は特権的な立場にいる」ことを万人(少なくとも、その社会の構成員の大半)が認める必要がある。ここで注意しなければならないのは、「私」が「私は特権的な立場にいる」と主張するだけでは不十分であることだ。社会によって、その主張は支持されねばならない。死刑執行人が死刑囚を殺すことによって処罰されないのは、死刑執行人の特権的な立場を、社会の構成員ひとりひとりが認めているからである。逆に、精神異常者が「オレは、誰でも殺してよいのだ!」と叫んで実際に実行に移そうとすると、確実にとらえられ、病院または警察に連れて行かれる。彼(女)には、特権的な立場が社会の構成員によって認められていないからである。


 以上の議論の中で、問題となるキーワード、きちんと定義されないまま、使われてきた用語は、以下の通りである。

  • 権利

また、この議論の妥当性の根拠もまた、正しく検証されていない。
 それから、これから検証されるべき主張は、以下の通りである。

  1. 戦争では人を殺してもよいのか
  2. 仕返しに人を殺してもよいのか

少し考えただけだと、どれも「特権的な立場」に関する説明で十分な気がするが、検討してみる必要はある。それから、「死にたくなったから人殺しをする」という、動機と結果が正しく結びついていない行為については、この考え方では門前払いになる(それでいいような気もするが)。


 それにしても、「なぜ人は人を殺してはならないのか」という根源的な問題であり、しかも今なぜか一部で流行している問題なのに、きちんと考えると地味なエントリーにしかならないのは、なぜだろう。ジャーナリスティックに、「うまく書いてやろう」などと思ってキーを叩けば、はあちゅうさんのように、いろいろツッコミが入って楽しいだろうに。しかし、私のやり方で真面目にとらえると、ほとんど誰も読まないか、読んでも興味を覚えないようなものにしかならない。ジャーナリスティックな文章を書くのは嫌いじゃないし、できなくもないのだが、ジャーナリスティックに書くのは、この問題を考えるやり方にそぐわないとしか思えない。

*1:ここは詳しく検証の必要がある