言葉は思考の入れ物ではない

 言葉は思考の入れ物ではない。精確に言うと、言葉は思考の入れ物であるだけではなく、思考を規定するものでもある。言語学を少しでも学んだ人なら、周知の事実だが、そうでない人には難しいことなのかもしれない。


きっこの日記」より
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20060322

「言葉」は、魚を獲るためのアミであり、ウサギを捕るためのワナだってことになる。大切なことは、その言葉によって伝えたい「気持ち」や「考え」であって、言葉そのものは道具にしかすぎない。

 「言葉そのものは道具にしか過ぎない」という考え方は正しい。同時に、言葉は「気持ち」や「考え」を規定するものでもある。つまり、言葉を使っている限り、どんな「気持ち」や「考え」でも、好きなように表現できる、と考えるのは誤りである。「気持ち」や「考え」は自由であっても、それを表現するときに、言葉という道具による規定(ここでは「限定」といってもいい)を受けることを免れ得ない。


 …と、ここまでは、言語学的には常識の範疇にはいるが、少しだけ踏み込んでおくと、文体は文意を規定するという側面を忘れない方がいい。Aという文体ではaという文意を伝えることができるが、Bという文体ではaという文意を伝えることはできない、ということがある。もちろん、「今日はよい天気だ」とか「私は○×△男です」などという文意なら、文体がどうであれ、伝わるかもしれないが、もっと微妙なニュアンスを持った文意を伝えるには、どんな文体でもよい、ということはない。

あたしは、ヘンチクリンな文章でも、いわゆるひとつの「きっこ文体」でも、これがあたしの道具なんだから、この自分の道具を使って、これからもずっと書き続けて行こうと思う。(中略)そう言う人たちは、あたしの「道具」を見てるだけじゃなくて、ちゃんと「中身」を見てくれてるんだなって思えて、ホントに嬉しくなる。

 「きっこの日記」を好んで読む読者は、そこで使われている「きっこ文体」という「道具」ではなく、その「中身」を重視しているのだ、と筆者のきっこさんは言う。しかし、私はそうではなく、「きっこ文体」という“容器”に盛られた「中身」を全体として好んでいるのではないか、と思う。