「なぜ人は人を殺してはならないのか」を考える準備(1)

「なぜ人は人を殺してはならないのか」という問題は、ネットのごく一部でひっそりと議論され続けている問題である。これを哲学的に少し考えていきたい。と言っても、哲学は素人の範疇を出ないので、間違っているかもしれない。間違っていたら、随時修正する。


まず、「なぜ人は人を殺してはならないのか」という問題そのものを封じる意見を排除しておく。「この問いは、問うてはならない」という主張を吟味することと、「なぜ人は人を殺してはならないのか」という問題を考えることは、別のことである。哲学には、問うてはならない問題は存在せず、問う価値のない問題が存在するだけである。問うという精神的な活動を禁じるのは、政治的な領域から出てくるものであり、問題を考えるという精神的な活動とは直接関係がない。
そして、「なぜ人は人を殺してはならないのか」と問う人に対する価値判断・分析も、この問題そのものを考える際には意味がないので、捨象する。「『なぜ人は人を殺してはならないのか』と問う人間はDQNだ」という主張は、問われるべき価値を持つが、「なぜ人は人を殺してはならないのか」という問題そのものとは区別されるべきである。
また、「なぜ人は人を殺してはならないのか」という問題が、「多くの社会では、人は人を殺してはならないことになっている」という事実認定を前提としていることを認めねば、この問題を考えるスタートにたてない。
つまり、今ここで考えるべき問題は、「多くの社会では、人は人を殺してはならないことになっているが、なぜそのような禁止が生じたのか」という形をとる。…この部分は「なぜ人を殺してはいけないのか」(小浜逸郎洋泉社)を少し参考にした。