ブログ的とは、学術論文的ということ?

弾さんの「404 Blog Not Found」から。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50421483.html

実はこの本の作り、実にブログ的なのだ。玉石混交の言論世界から玉をとりだし、それを指輪にいれてみる。そこには原石だったときとは違った魅力が生じる。玉の持主にきちんと筋をとおして「仕入れさえ」すれば、なんら後ろ暗いところはない。

「玉石混淆の言論世界から玉をとりだし」というくだりを読んで、同じような作業をしたことがあるなあ、と思ったので、つらつら考えてみた。そう、学術論文と似ているのである。特に、文学研究に似ている、というか、まったく同じである。学術論文は、最後に結論がないといけないので、ブログのように適当な終わり方は許されない、という作法上の違いはあるけれど。


「高校生のための小説案内」は、私自身、高校生だった時に出版されたものだったように思う。弾さんが書いているように、あの三部作の「くさらなさ」はスゴい。10年前からすでに話題になっていたくらいだ。で、弾さんが引用していた、

  1. 良い文章とは
    1. 自分にしか書けないことを
    2. だれが読んでもわかるように書いた文章

というくだりだが、ここでの「自分にしか書けない」というのは、「自分にしか書けない」か「誰でも書ける」か二者択一でないことに注意したい。でないと、「この部分は私にしか書けない」「いや、誰でも書ける」なんて不毛な議論につながる。むしろ、「自分にしか書けない」度がどのくらいか、というファジー理論的な考え方の方が生産的だ。
なぜこんなことを考えるかというと、私自身がマスコミの端っこの方で仕事をしているからで、「自分にしか書けない」ことなんて、ほとんどないけれど、書き続けねばならない仕事をしているからである。「自分にしか書けない」度が100%の文章なんて、全然書く機会がないけれど、そうかといって、「よい文章」を書かないでいい、などとはこれっぽっちも思っていない。自分が書いたものも「よい文章」に入れて欲しい…という、なんだか志の低い動機だけど、そう思うのだ。